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2014年9月 1日 (月)

虐待報道に思うこと

「虐待」という言葉をニュースで聞かない日はないくらい、毎日のように悲しい事件が報道されています。

「24時間以内に死ね」と14歳の息子に言って自殺させた父親、兄弟げんかで父親の威厳を見せるために9歳児の指を切断した父親、3歳児を突き飛ばして外傷性ショックで死なせた母親…。どれもこの1カ月の間に起きた事件。

育児の孤立化、個室化。そして、出産するまで「子ども」という存在との接点がなかった親がほとんどという時代の背景。

我が子が生まれたとき、「一生守りぬこう」「一生大切に育てよう」と思ったはずなのに。「大きくなったら自殺を強要しよう」とか「いつか殴り殺してやろう」と思って産み育てた親は絶対にいないのに…。あまりに悲しすぎる現実。

そして、数ヶ月前に渋谷駅で起きた幼児虐待事件。これは、泣き叫ぶ女児をヒステリックに蹴りつけながら怒鳴っている母親の様子を、通行人の男性が動画を撮りネットで拡散した事件のこと。ネット上では「通り過ぎる無関心な人が多い中、勇気を出して動画撮影した男性はすばらしい」と称賛する声も上がりました。

確かにこの母親の行為自体は虐待で、許されることはないと思う。でも、この動画に同時に映っていたのは、「おい!!虐待だろ!」「証拠動画撮ったからな!」と、攻撃的に言い捨てる撮影者の男性の声。

この男性は、泣き叫ぶ幼児と行動を共にした経験があるのだろうか。世間の多くの男性は、泣き叫ぶ子の世話を「長時間たった一人で」する機会は少ないのではないだろうか。世話をする時間が制限されていたり、周りに妻や家族がいる事の方が多いのではと思う。

通報した男性に子どもがいるのかどうかは分からないけれど、泣いてかんしゃくをおこす子をなだめて抱っこして、(子どものおもちゃや洋服やおむつがたくさん入った)荷物を持ちながら満員電車に乗った経験はおそらくないと思う。だって、きっとそんな経験をしたことのある人間は、余裕がなくてヒステリックになっている母親に攻撃的な言葉を投げつけることはできないと思うから。

せめて周りの大人が、この親子に温かいまなざしを向けていたなら…。「あらあらどうしたの?」と子どもに優しい声をかける大人がいたなら。「ママも大変よねえ」とママをねぎらう大人がいたなら。「あなたの状況がわかるわよ」と共感的に関わってくれる大人がいたなら…。あの母親はハッと冷静になった可能性はある。あんなにヒステリックになることはなかったかもしれない。

そして、挙句にネット上に動画が拡散され、個人が特定され自ら警察に名乗り出ざるを得ない状況に追い込まれてしまう。(ニュース:渋谷駅で幼児虐待していた母親を特定

母親は、逃げるようにその場を去った後、「この子が泣き叫んだせいで恥をかいた」と、子どもにきつく当たっていないだろうか。目立つところだと問題になるから、だれにも見つからないように部屋の中での虐待に発展していないだろうか。

虐待がクローズアップされて久しいけれど、「鬼母」「狂気」「奇行」とセンセーショナルな文字を目にする機会が多い。虐待は一部の特殊な親の問題であって、まるで自分たちとは住む世界が違う人の話のような報道には違和感を覚えるのです。

丁寧なルポライターとして知られている杉山春さん(代表著書「虐待」「ネグレクト」)は著作の中で、「虐待しているのは、残虐非道な親ではなく『ごく普通の人たち』で、虐待してはいけないことを十分に知っているのだ」と、述べていらっしゃいます。

また、杉山春さんの著書「ネグレクト」の巻末解説から、以下を引用します。

白昼、時ならぬ子どもの悲鳴!振り向けば、3~4歳の女の子が髪の毛を逆立てんばかりに泣き叫んでいる。いきなり罵声が続いた。

 「早く来いっていうんだよ。てめえぶっ殺されたえのか!」

女の子から15mほど離れた路上に、母親らしき女性がいる。私と一瞬目が合うと、語気だけは多少やわらげて、つりあがった目つきのままで、「ねえ、早くしてくんない?ママ行っちゃうよぉ。もう行っちゃうよぉ」と言った。

茶髪でも「ヤンママ」風でもない、どこにでもいそうな若い母親である。その平凡さと、むき出しの罵声の異様さとがあまりにかけ離れていて、私は当惑と気がかりが入り混じった後味の悪さにとらわれる。そんなことが、近頃とみに増えた。

私がつきあう機会の多いアジアの留学生たちからは、こんな質問を受ける。「どうして日本人は、親が子ども殺しますか?そして、子が親、殺しますか?私の国では絶対ありません」

来日して一番ショックだったことはこのことだと、ベトナムの留学生も、モンゴルの留学生も、中国人の留学生も口をそろえた。私たちは、子殺しや親殺しのニュースに驚かなくなって久しいが、アジアの、とりわけ発展途上国から来た留学生にとっては、頭をこん棒で殴られたような衝撃を受けるようだ。

日本も昔はこうでなかった。明治時代の初期に来日した欧米人たちは、日本人が朝から晩まで子どもらの世話を焼き、人目もはばからず我が子を慈しむ姿に感銘を受け、しばしば滞在記に書きとめている。それがいつ頃、なぜ変わったのか。

次から次へと起きるショッキングな事件をマスコミ経由で知らされる私たちは、異常な事件は、自分とは縁もゆかりもない異常な人間がしでかした凶行となんとなく結論付け、そうやって自分をまたなんとなく納得させて、すぐ忘れる習慣を身につけてきた。~ノンフィクションライター野村進さんによる~

泣き叫んでいる子どもを見かけたら、私たちに何ができるだろう。子どもを怒鳴りつけている親に出会ったら何ができるのか…。もちろん、命にかかわるような状況なら通報も必要かもしれない。でも、命にかかわる状況ではないときは、感情的になっている親が「ふと」我にかえれるような関わりが必要なのではないかと私は思う。

泣き叫んでいる子どもに飴玉を差し出すとか、親に「大変ですね」と声をかけるとか、もしくはただニコッと笑いかけて通り過ぎるだけでもいい。たったそれだけで、沸騰している親の気持ちが少し静まることを願いたい。

育児中は、精神的に安定しているときばかりではない。体調の悪い時や、夫婦げんか、身内の不幸、経済的な問題…。シングルマザーなど周りのサポートがない親も大勢いる。精神的に緊張しているときに子どもが泣き叫んだら冷静でいられないこともある。そんな状況の親を、周りの人たちが温かいまなざしで守ることができたなら。そうしたら、毎日報道されている虐待事件のように追い込まれる親は少なくなるのではないか…と、思うのです。

虐待の発見に必要な「地域の目」とは、「虐待を発見する目」ではなく、「やさしく見守る目」であり、「頑張っている母親を認める目」であってほしい。頑張っていることを認めてもらい冷静になったら、虐待しそうな自分を止めることができるかもしれない。もしも虐待している母親をみつけたら、責めるのではなく、そこまで追いつめられるほど頑張った努力も認めてあげてほしい。そうしたら、本来の優しい気持ちを取り戻すこともあるのでは?

もちろん子どもに暴力をふるったり罵声を浴びせることを擁護するつもりはないし、虐待は許されることではない。けれど、育児経験の少ない人たちが「鬼母」「狂気」と糾弾することに違和感を覚えてならないのです。私自身も孤独な育児を経験し、自分を見失いそうな瞬間が何度もありました。今この瞬間にも育児で悩み、子どもを怒鳴り暴力をふるいそうに追い詰められている親が一線を超えないためには、私たちに何ができるのだろう、まずはその原点を考えたいと思うのです。

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